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人生で初めての旅は浪人生活だったかもしれない

人生で初めての旅は浪人生活だったかもしれない

2020.02.16 By Takuya コト

旅を価値観や常識が揺さぶられる機会とするのであれば、僕は19才のときに1年間の浪人生活を送るまで、旅というものをしたことがなかったのではないか。最近になってこんなふうに考えるようになったので、今回は僕の生い立ちと合わせて、その経緯について書いていければと思います。

僕は冒頭でも触れたように、旅の経験は、人が抱える価値観や固定観念、常識という言葉で説明されるようなものに、なんらかの影響を与えるもの であると考えています。

だからといって、この記事では「もっと旅をしたほうがいいよ!」とか、「旅で人生変わりました★」といったようなことを書くつもりはなく、「こんな旅の捉えかたもあるのか。」くらいに読んでもらえたら嬉しいです。

では、なぜ僕がそれまで国内外のいくつかの場所を訪れた経験があったにもかかわらず、 浪人生活こそが人生で初めての旅であった と考えるようになったのか。

それを説明するには、僕の生まれ育った環境ついて触れなければなりません。

同じであることが素晴らしい世界で

近年になってよく耳にすることばに、 "敷かれたレールに乗る" というものがあります。

僕は"選択肢のひとつとしてレールに乗る"ことはアリですが、"絶対にレールから降りない"というのは、いささか考えものであるという立場です。

しかし、僕が育った環境では、後者の意見を良しとする割合がほとんど。

これは育成年代における一例に過ぎませんが、僕は

「より偏差値の高い教育機関への入学を目指し、最終的に社会的な評価を得やすい職を得ること」

がなによりも重要であると、あるときは言葉、あるときはその場の"空気"によって教えこまれました。

スピードやクオリティに個人差はありますが、学生であるうちはみながこの同一ともいえる目標に向かって邁進することを、親や教師、親戚やそのほかの周囲の人々からひたすら奨励されるのです。

隣の〇〇ちゃんのようにあなたも勉強を頑張りなさい。そうすれば"いい生活"が送れるのだから。

僕が書いたようなことは、もしかしたら日本に生まれたらごくごく自然なことなのかもしれません。

僕自身勉強が嫌いなわけでもありませんし、頑張ることを否定するつもりも毛頭ありません。

しかし、僕がいつも疑問に思っていたのは、

「どうしてここにいる人間は大人も子供も全く同じ1つの価値基準しか持ち合わせていないのか?」

という点でした。

今思えば、僕の友人はとても個性的な面々が揃っていました。

ゲームがやたら強いやつや、HipHopに詳しいやつ。 イラストが上手なやつや、釣りのことばかり話してるやつ。

彼らの他にも多くの友人がいました。

彼らの好きなことに対する思いは偏差値には反映されませんが、僕にはとても魅力的に映っていて、よく話をしたのを覚えています。

しかしある時期を迎えると、みな険しい表情を浮かべて、

Takuya、仕方ないんだよ。

と言いながら、みな一斉に行きたくもない学校や職場に入るための準備を始めていきました。

そうでもしないとBig Brotherに怒られるとでも言わんばかりに。

理解ある両親

僕自身の話をしておくと、幸いなことに体格や学習の機会に大いに恵まれたこともあり、あのような基準を押し付けられて困ることはそれほどありませんでした。

しかし、何不自由のない生活を送りながらも、先述した疑問は一向に振り払えないままだったのを覚えています。

そんな僕に対して、今思えば両親は忙しいなか、僕が「別な価値基準」に触れることができる機会を、様々なフェーズで積極的に用意してくれました。

LAでホームステイをさせてくれたり、Rioで開催されたサッカー大会に送り出してくれたこともあります。Canadianの先生と週2でマンツーマンの英会話クラスを受けさせてくれたこともありました。

このようにして、僕の両親はなるべく"外の人間"と関わる機会を提供することによって、僕が触れてきた価値観を相対化する機会を提供しつつ、"レールを外れない"範囲で疑問に向き合えるような環境を用意してくれていたように思います。

強制的にレールから降ろされる

そうして疑問を抱えながらも、そこそこ順調に"レールの上を走ってきた"僕でしたが、あることをきっかけにあっさりと "レールから脱線" することになります。

僕は1度目の大学受験で、1つも合格通知をもらえませんでした。

そのため、高校卒業後の進路が白紙となり、最終的にそのまま浪人することに。

なんとも親不孝な結果になってしまいましたが、当時の僕の内面に沸いた感情は、ネガティブなものだけではありませんでした。

もちろん悔しい気持ちもありましたが、どちらかというと開放感にも似た、スッキリとした感覚のほうが優っていたのです。

なぜなら失敗した人間というレッテルを貼られるのを最後に、もはや 単一の価値基準によって周囲からラベリングされることは短期的には無くなった から。

それに加えて、

なぜこうまでして自分は勉強を頑張っているのか?

といったような、それまで考えもしなかったような、根源的な疑問にまで立ち返る機会を得ることができました。

これはもしかしたら「バカな疑問を抱くな」と一蹴されるようなはなしかもしれません。

しかし、恥ずかしながら当たり前とされていることに対して疑問を持つ習慣を得たのは、まさしくこのときの経験があったからであり、僕はそれだけで浪人を経験した価値があったと思っています。

つまり、僕にとって浪人生活は 僕自身が常に晒されてきた価値観や常識というものから、初めて距離を取ることができた時間 であると言っても過言ではありません。

旅とは

その後1年間の浪人生活を送り、なんやかんやで偏差値を20ほど上昇させた僕は、第一志望の大学に入学することになります。

ここまでお読みいただいた方のなかには、温室でぬくぬくと育った若者が、たかが受験でつまづいたことをきっかけに、ちょっとした気づきを得たはなしくらいに捉えられる方も少なくないかと思います。

しかし、僕は現役の浪人生を勇気付けたいわけでも、第一志望に合格した成功体験をシェアしたいわけでもありません。

僕がこの記事で伝えたいことは、自分に根付いた常識や価値基準から自力で距離を取ることの難しさ であり、それは"レールを外れる"くらいの経験でもって初めて成し遂げられるということ。

さらに、わざわざレールを外れるまでもなく、自分に植え付けられたものを取っ払ってくれる可能性を大いに孕んでいるのが、旅なのではないか ということです。

もし、これが正しいとしたら、僕にとっての浪人生活は紛れもない「旅」だったと言えます。

そして僕はこれからも、また新しい旅に出る度に新しい人たちと出会い、彼らの価値観やスタイル、常識や文化といったものを吸収します。

あの浪人の日々に感じたような、昨日まで黒だったものが白になっていく感覚とともに。